初めに自己紹介から
私は、もうすぐ70歳になる施設警備員です。
まずは、可愛い可愛い女の子のお孫ちゃんを、picoちゃん、と呼んでおります。私はpicoちゃんのおじいちゃんなので、Picochanjiijiと自分のことを呼んでおります。完全な、じぃじバカです(^^;;;
ネット名は mifu.takasawa ですが、本名は Kaishou Koike と申します。優しい優しい妻と、何をしているかわからない三十過ぎの男の子供が3人と、可愛い可愛いお孫ちゃんの女の子が1人と・・・(^o^)
私は、1955年7月8日生まれで、東京三鷹市に快適な新築の一軒家とほぼ新車のトコットで、妻と二人で、たまに、次男夫婦が、可愛い可愛いお孫ちゃんを連れてきて、幸せに暮らしております。まぁ、家と車のローンが玉に瑕ですが・・・
趣味は以下の感じ
- 英語学習(mikan歴4年、duolingo歴3年)
- タイピング(タイプランドでレベル99で止まっている)
- プライムビデオ(日に2〜3本)
- A6裏紙日記(何を食べたか、運動したか、血圧等のデータ)
- 千円札貯金
- 筋トレ
- ミニマリスト
- 法華経読誦(法華経の勉強)
- ブログ(燈明日記、法華経ブログ)
現在、この燈明日記(1999年から25年間)と法華経ブログ(2008年から16年間)やっています。
ちなみに、燈明日記は以下の3世代があります。
- 1999年1月〜2005年5月 ウェブページでの燈明日記(現在、未公開)
- 2005年6月〜2024年10月 はてなダイアリーでの燈明日記(のち、はてなブログ)
- 2024年10月〜現在 ブロガーでの燈明日記(いま、このブログ)
次に自分史
誰が、無名の老人の自分史なんて読むのかって声が聞こえてきそうですが、もうすぐ70歳の身になれば、多分わかっていただけると思います(^^;;
あと、自分史を読み返して書き忘れたことがありました。
- 北海道カニ族旅行(周遊券で北海道をほぼ制覇)
- バイクツーリング(小説汚れた英雄の影響でバイクの免許を取り・・・)
- 読書本集め(高校生ぐらいから集めに集め、今は捨てに捨て、書斎なし)
- レコード鑑賞レコード集め(300枚ぐらい集めたが、ハードオフに、今はなし)
さて、自分史ですが、大きく分けて以下の3つになっています。
- 0歳から23歳までの「生い立ち学校編」
- 23歳から55歳までの「プログラマー編」
- 55歳から69歳までの「警備員編」
では、 Kaishou Koike の自分史をどうぞ!
生い立ち学校編
- 生い立ち編
- 小学校編
- 中学校編
- 高校・予備校編
- 大学編
生い立ち編
私は、昭和30年7月に東京都三鷹市で生を受けました。
とにかく、ちょっと変わった子供で、今思うと、アスペルガーのような・・・のちに認定されそうになる(^^;;
私の一番の昔の記憶は、幼稚園でのお泊まりが出来ずに、母親を困らせたことですね。
それ以外の記憶が皆無です。なので、生い立ち編は、これで終わりです。
って、皆さんは0〜6歳の記憶ってありますか?
小学校編
年の計算が間違ってなければ、1961年に地元の小学校に入学できました。
ちょっと変わった子だったので、 周りからは、特殊学級に入れた方がいいのでは、と言われていたそうですが、地元の小学校に特殊学級がなかったので、普通の小学校に入学できました(^^;
そんなんで、小学校で勉強した記憶が皆無で、毎日、遊びに学校に行っていました。毎日泥だらけで、遊びまっくって、しかも、当時の家にはお風呂がありませんでした。
当然汚かったので、女の子たちから嫌われていたのを覚えています。ある時、手を繋ぐゲームがあったのですが、汚いからとハンカチを介して繋いだ記憶は、今もトラウマになっています(ToT)
とにかく、この小学校時代は、勉強皆無だったので、字がまともに読めません。中学に入ってから苦労することになりました。ということで、中学校編に続きます・・・
しかし、生い立ち編といい、この小学校編といい、おバカな子だったので、記憶がないので、書きようがないのです(^^;
中学校編
年の計算が間違ってなければ、1967年に地元の中学校に入学できました。
中学校ではクラブ活動に入らないといけないので、友達が野球部に入るということで、何も考えずに一緒に入りました。
しかし、入ってから野球については何も知らず、先輩が怖くて、クラブをやめることができませんでした。
当時の野球部は、典型的な体育会系で、上下関係が厳しく、クラブをやめるなど考えも及びませんでした。
しかし、体育では、短距離と長距離が速く、武蔵野三鷹大会や駅伝に常連で出場していた記憶があります。
さて、勉強の方ですが、字がろくに読めず、簡単な計算もできず、3年生の2学期まで底辺でした。
しかし、高校受験を意識したのか、3年生の2学期ごろから、猛烈に勉強をし始め、3年生の3学期は、ほぼオール4レベルになりました(^o^)
しかし、3年生3学期の成績は内申書に関係ないとのことで残念に思った記憶があります。なので、内申書がオール2レベルで、底辺の高校に行くことになりました。
しかし、猛烈な勉強の勢いのまま、底辺の高校に入ったものですから、いきなり、なんと成績がトップになってしまったのです(^o^)
ということで、高校・予備校編へ続きます・・・
高校・予備校編
中学3年の2学期から猛烈に勉強した勢いで、底辺の工業高校に入ったものですから、いきなり、クラスのトップになってしまったのです(^o^)
なんと、高校3年間ずーっと学級員長で、生徒会長もやるように言われたが、それは友達に譲った・・・という経験があります(^^;
この時代は、吉田拓郎、井上陽水、ジローズ、赤い鳥、クルセダース等のフォークブームで、私も友達に習い、ギターをやり始めました。
しばらくて、フォークには飽きて、ロックに傾倒していきます。クリーム、ビートルズ、ディープパープルを友達とバンドを組み、そこでベースを弾いていました。
まだ車のない高校生なので、リヤカーに機材(中古ドラムセットやアンプ)を積み、バンドメンバー皆んなで押して、市の無料施設にいき、練習したのが懐かしです。
あと、高校仲良しで草野球チームを作って、よく遊びました。中学校野球部では補欠だったけど、こちらでは不動のレギュラーです(^^;;
アルバイトも、東京天文台で信州野辺山に行き、アンテナ群のペンキ塗りとか、ニッポン放送のスタジオで、ラジオなのに照明とか、コンサートの手伝いとかが懐かしです。
あっという間に3年間が経ち、大学受験になりましたが、底辺の工業高校でいくらトップでも、一般大学には全く太刀打ちできません。浪人して吉祥寺にある予備校に入ることになります。
予備校の記憶は、ほとんどなく、人生で初めて、予備校で見かけた清楚な女の子に一大決心して声をかけ、デートしたぐらいです。片思いの恋愛は、高校時代にもありましたが…(奥手)
一浪したこともあり、新宿西口ある工学系の某大学に通うことになります。私がいた時は、5、6階のビルだったのですが、今は、周りに合わせてタワービルの大学になっていますね。
ということで、高校・予備校編は終わりです。
大学編
思いつくまま、書いてみます(^^;;;
モダンジャズクラブ
大学のモダンジャズクラブでベースプレイヤーを探していて、クラブに入っている友人から、高校時代にロックバンドでベースを弾いていたのならとお願いされ、モダンジャズクラブに出入りする。
部室はなく、機材は屋上付室に置いてあり、練習は屋上での演奏です。目の前に京王プラザビルあり、 そこに向けて演奏を行う感じで、映画のワンシーンのようでした(^^;;
なんと、大学対抗の演奏会にも出場し、大舞台で演奏もしたりして・・・
ディスコ
丁度、サタデー・ナイト・フィーバーの時代で、尚且つ大学が新宿西口ということで、学校の帰りに新宿東口方面へディスコ通いをしていましたです。そこで知り合った女の子と初体験も・・・(汗)
友達が踊るのが得意で、いろいろ教わったのですが、全くダメでした(悲)
運転免許とバイト
大学に入ってから車の免許を取り、とにかく車が運転したいということで、いきなり雑誌の配送バイトをしてダットサンで銀座方面に配送していました。あと、乗用車で吉祥寺のアトリエから渋谷の東急への洋服(プレタポルテ)の納品とかも・・・
車のバイト以外に、靴屋、花屋、チラシ配り、名刺配りなどなど色々やりました。
カレースパゲッティ
今も、なぜか強烈に記憶に残っているカレースパゲッティ・・・新宿駅から大学に行く途中にスパゲッティ屋さんがあり、そこのカレースパゲッティがめちゃくちゃ美味しくて・・・
今も、家でカレーを作るたびに、カレースパゲッティも作るので、家内が不思議に思っています(^^;;
教職課程
教職課程の単位も取っていたのですが、 結局、取りきれずに卒業してしまい、なぜか、大学に単位を取りに行く夢を見続けて、今でも時々見るのです。なんだろ〜
マイコン
卒業間近に、姉が結婚し、旦那さんの趣味がマイコンで、アセンブラのコンピュータプログラムを教わり、初めてプログラミングを経験しました。その影響で、大学卒業後、コンピュータソフト会社に就職することになったのです。
ということで、自分史 プログラマー編へ続きます。
プログラマー編
- 1979年:東芝府中工場で電力・鉄鋼・原子力の制御をPL-40・TPLで約8年
- 1988年:リコーの子会社で販売管理をOS/2でCOBOL/2を約3年
- 1991年:NECの子会社で通信系をUNIXでC言語を約12年
- 2004年:NSW(渋谷)でクレジット系をWIN-XPでVB.NETを約2年
- 2006年:NECの子会社にてWINDOWS-XPでVB2005とPerlを約5年
- 2011年:プログラマーから警備員に転職(^^;;
東芝府中工場時代
大学を一浪一留で卒業して、某ソフト会社(後に倒産して東芝子会社に入る)に入り、勤務は東芝府中工場でした。
始めは、東北電力、エジプトスキャダ、中部電力飯田のシステム開発でしたが新人で経験不足で 、正直内容を理解できなかったです。
次は、原子力ですが、川崎の浮島に実は原子炉がありまして、そこでフォートランで研究員の人たちの補助的なプログラムを書いていました。
最後は、鉄鋼ですが、この頃は大部プログラミングの腕も上がって、新日鉄(北九州)、日本鋼管(福山)、吾嬬製鋼(仙台)に何か月も出張に行っていました。
各鉄鋼所では、高炉、厚板、コイルなどを精製する制御プログラムを書いていました。今の時代、 新日鉄は日本製鉄、日本鋼管と吾嬬製鋼はJFEスチール(株)になったようですね。
とにかく、工場でも出張先でも、とんでもない残業時間を叩き出していました。ある意味、奴隷のようでした(^^;
そういう時代だったのだと思います。 という事で、次回はリコー子会社時代へ
リコー子会社時代
東芝府中工場での勤務が、徹夜やら夜勤やらの超残業で、肉体的にも精神的にも病んでしまって、東芝子会社から某ソフト会社に転職しました。
転職した会社の事務所はJR水道橋駅前で、そこから歩いて靖国神社を通って、千鳥ヶ淵近くのリコーの子会社へ勤務していました。
東芝では制御系のプログラムだったのですが、リコーでは事務系のプログラムで、めちゃくちゃ楽になりました。
2年ぐらいそこで、OS2&COBOL2で、販売管理を開発していたのですが、開発終了後、新横浜の事務所に移りました。
で、今度はそのシステムのメンテナンスをする仕事になりました。2時間掛けて通勤し(往復で一冊文庫本が読める)、何回か新幹線通勤も経験いたしました(^^;
そんなこんなで、転職した会社の社長から、リコーは単価が安いので、NECで働いて欲しいとのことで、NECで働くことになりました。
自分で開発しメンテナンスしている販売管理システムなので、リコーに残りたいと社長にお願いしたのですが・・・
ということで、NEC時代へ続きます。
NEC子会社時代
リコーに派遣で、販売管理システムのメンテナンスの仕事を新横浜でしていましたが、リコーは単価が安いとのことで、NECの子会社で働くことになりました。
NECの子会社と言っても、大きな会社で、NECが販売したすべてのコンピュータをメンテナンスする会社です。
NECのコンピュータには、個人向け以外、すべて故障情報自動通報機能が搭載されています。スパコン、汎用機、オフコン、サーバー、POS等が故障したら自動的に通報される機能です。
私が行く前は、そのすべての故障情報自動通報をオフコンで受けている基幹システムでした。それをUP4800というUNIXサーバーで受けるようにするのが仕事でした。
そう時代は、クローズドのオフコンからオープンのワークステーション時代になろうとしていたのです。ということで、このNEC子会社で12年間働くことになります。
で、私は、結果的に、ほぼ一人でその基幹システムをUNIX上に作ってしまったのです。その会社の基幹システムを構築したので、周りからは羨望の目で見られ大きな会議にもよく呼ばれ、ある意味増上慢になっていました。
しかし、時代はいつの間にかEメールの時代が来ていて、私のシステムの通信プロトコルが徐々にEメールに置き換わり、また、2000年ごろからの景気低迷が重なって、なんと、その会社から2004年にリストラされてしまったのです(ToT)
ということで、以上こんな感じで、次は、渋谷NSW時代へ続きます。
渋谷NSW時代
NECの子会社の派遣をリストラされた私は、東大卒の先輩が行っている、渋谷のNSWという金融系のソフト会社に派遣されることになりました。
仕事はWINDOWS上のVB6(ビジュアルベーシックバージョン6)で構築したシステムをVB .NETに置き換える仕事でした。
当時、今までのVBとは違う概念のVB .NETだったので、意外と苦戦して、毎日、夜中の12時過ぎの京王線で渋谷から帰る毎日でした。しかし、その時間でも超満員なので世の中どうなっているのと思った記憶があります。
あと、NSWにオフコンがあったのですが、担当者が、故障した時にNECへALIVE自動通報すると説明があった時、ALIVEは私が開発したと言ったら、驚いていました(^o^)
VB .NETへ置き換えの仕事が終わった後は、某ファイナンスのクレジットシステムの開発チームに入りました。このシステム開発は、すでに泥沼化していて、毎日、不毛なシステム開発をしていましたが、某ファイナンスが突然に開発中止ということで、まさに青天の霹靂でした。
開発者としては、今までの努力は何んだたんだとか、不毛のシステムから逃れられるとか、複雑な感情を抱いた記憶があります。某ファイナンスとしては、今まで何億も注ぎ込んでいるのに、よく開発中止に出来るもんだと思ったものです。
2005年の後半から、父(当時83歳)の介護が必要になり、それが原因で会社を休みがちになり、ついに2005年末にNSWから契約解除を言い渡されました。
2006年初頭に父が亡くなって、私も無職なる寸前に、偶然にもNEC子会社で私と一緒にシステム開発した当時主任の上司の方から、仕事を手伝ってほしいと連絡があり、また、NEC子会社で働けることになりました。(神様仏様は、いるのかもしれないと思った瞬間でした)
ということで、以上こんな感じで、次は、第二次NEC子会社時代へ続きます。
第二次NEC子会社時代
2005年の後半から、父(当時83歳)の介護が必要になり、それが原因で会社を休みがちになり、ついに2005年末にNSWから契約解除を言い渡されました。
2006年の初頭に父が亡くなって、私も無職なる寸前に、前に働いていたNEC子会社で私と一緒にシステム開発した当時主任の上司の方から、仕事を手伝ってほしいと連絡があり、また、NEC子会社で働けることになりました。
当時主任の上司ですが、本部長代理なっていて、その年の四月に本部長になってしまったのです。NEC子会社の本部長なので、この人が本部長でいた5年間をここで働くことができました(^o^)
仕事は、皮肉にも、かつて私が開発したシステムを置き換えたシステムの、私のリストラの原因になった、故障情報通報のEメールディスパッチシステムメンテナンスでした。
前システムはC言語でしたが、この五年間はPerlがメインで、あとEXCELのVBAも結構やりました。この五年間は、ある意味、インターネットをしに会社に行っていたと言っても過言ではありませんでした(^^;;
そんなこんなで、本部長さんが関連会社に左遷されたとほぼ同時に、私もこの会社から2度目のリストラに会いました。左遷された後に来た新本部長さんが私より何歳も若かった・・・
このリストラは、派遣でのNEC子会社だけでなく、所属している某ソフト会社からもリストラされました。時代も2008年からのリーマンショックや世界的な景気後退の影響を受け、日本景気は大幅に悪化していました。
ということで、警備員時代がやってきます。
警備員編
- 2010年:警備員訓練校編
- 2011年:飯田橋複合施設編
- 2013年:東高円寺幼稚園編
- 2013年:荻窪100%セキュリティ施設編
- 2016年:日本橋複合施設編
- 2024年11月:現在
警備員訓練校編
55歳になる年の2010年6月にプログラマーをやめ、ハローワークに行き、羽田空港近くの大田区の警備科のある訓練校を紹介してもらい、入学テストに合格して、10月に晴れて警備訓練生になれました(^o^)
訓練期間は10月から12月の3ヶ月で、真面目にやれば、施設警備2級、自衛消防、上級救命の3つの資格が取れます。訓練校入試勉強と併せて、55歳で、こんなに勉強するとは思っても見ませんでした。
上級救命は講習を受けるだけで資格が取れるのですが、施設警備2級と自衛消防はペーパーテストでは90点以上が必要で、しかも実技試験もあるのです。まぁ、両方もと運よく合格できましたが、実は死ぬほど勉強した記憶あります(^^;;
この頃のブログが残っていたので以下にリンクしときます。
ということで、訓練校での3ヶ月があっと言う間に終わり、訓練校に警備員をスカウトしに来ていた、後の隊長の会社へ入社することになったのです。
その会社は、大手某建設会社の子会社で、某建設の某サービスという会社でした。2011年1月11日に入社して、2024年の今もこの会社です。
そして、その某サービス会社からの派遣で、JR飯田橋駅前の複合施設に警備員として勤務が始まったのです。ということで飯田橋複合施設編に続きます。
飯田橋複合施設編
55歳になる年の2010年6月にプログラマーをやめ、警備科のある訓練校を卒業し、2011年の1月に、晴れて施設警備員になりました。現場はJR飯田橋駅前の複合施設でした。
プログラマーからの転職での新人警備員の私は、慣れないこともあり、ミス連続の日々で、隊長と先輩警備員から説教の毎日でした。
もう、14年前のことなので、ミスは覚えていませんが、毎日説教三昧だったことは覚えています。今思うと、隊長とその先輩は、小さなミスでも説教しなくてはいられない病気だったような気がします。
その証拠に、私が他の現場に移った後に入ってきた警備員に、やはり説教三昧していたと、噂で聞いています。 勤務時間の大半を説教で、まさに病的だなと今も思っています。
結局、小さなミスでなく、大きなミスをして、 この現場には約2年で離れることになりました。大きなミスと言っても、業者の車が地下駐車場の天井を擦ったの見つけ、独断でバックさせただけなのですが、隊長の逆鱗に触れてしまったようでした。
ということで、この現場からリストラされ、JR荻窪駅前の荻窪100%セキュリティ施設に移りました。結果的に説教地獄からの解放でもありました(^o^) つづく。
東高円寺幼稚園編
飯田橋の施設をリストラされ、2013年1月からJR荻窪駅前の施設で勤務する予定でしたが、急遽、東高円寺にある某幼稚園で警備することになりました。
この某幼稚園の警備は臨時で4ヶ月行いました。キリスト教系の幼稚園で、なおかつ、男性の職員が一人もいません(^^;
園児は、2歳児から5歳児まで、私は、警備というより守衛門番で、園児が登校下校の時に門を開けたり閉めたりするのがメインの仕事でした。
普通の幼稚園は3歳児からですが、ここは2歳児からで、その子らの制服の園服がみんな大くて、 園服がよちよち歩いている感じが、たまらなく可愛くて幸せを感じました(^o^)
可愛い園児たち、綺麗な若い保母さんたち、品のあるおばちゃんシスターたちに囲まれて、人生一番の幸せな職場でした。
臨時警備の終わりが、丁度卒園式と重なり、職員全員から花束退職フィナーレをしていただいて、講堂で撮った集合記念写真は、男性は私一人! 幸せや〜
飯田橋現場が説教地獄、東高円寺現場が異性天国・・・そしてこの時は、まだ第二の地獄が迫っていたことに気づいていませんでした。
その地獄の荻窪100%セキュリティ施設編に続きます。
荻窪100%セキュリティ施設編
さて、飯田橋施設警備が説教地獄で、東高円寺幼稚園警備が異性天国、そして、荻窪100%セキュリティ施設での警備です。
本来の警備は、100%セキュリティが基本ですが、実際は、ゆるゆるな警備が普通です。しかし、この荻窪施設では、基本とおり100%セキュリティなのです。
- 各テナント社員は、一人一人、ゲートでIDカードでの入館(共連れ完全排除)
- お客様は、全員、コンシェルジュの女性が対応
- 業者は、末端作業者まで全員受付をする
- 搬出入する作業は、必ず、警備員がドアに立つ
- などなど
立哨ではゲート共連れ完全排除、受付ではテナント毎、業者毎、要件毎に出す入管バッチが異なり、テナント毎に異なる電話機で行き先にアポを入れるという煩雑さ・・・
当然、各テナントもセキュリティ意識が高く、テナント内での作業で、各部屋に入る時は、前もって、指紋認証したり、セキュリティカード使用の扉、シリンダーキー使用の扉などなど決まっていて、細心の注意が必要です。
そんなんで、日々神経をすり減らし、人生初めてインフルエンザに罹ったり、原因不明の血尿になったり、乾癬関節炎の発症と、さんざんな目に遭いました。
で、とあるテナント内の点検で、業者と回っていた時、指紋認証の部屋があり、入ろうとしても指紋認証を受け付けてくれません。なのでマスターキーを持っていたのでこれで入室しました。
ところが、作業が終わって出ようとしたら、どこにも鍵穴がありません。そう、業者共々閉じ込められてしまったのです(ToT)
この大ミスが原因で、この施設を離れることになりました。とにかく、ストレスの塊のような施設から、結果的に離れられることになったので、怪我の功名だったのかもしれません。
そんなこんなで、現在も勤務している日本橋複合施設へ2016年に移りました。
日本橋複合施設編
飯田橋施設現場が説教地獄で、東高円寺幼稚園現場が異性天国で、荻窪施設現場がストレス地獄で、ここ日本橋複合施設は、また天国でした(^o^)
今2024年12月、この施設に10年目で日々働いています。
このダメダメ警備員の私が、なぜ、10年間もここで働けたかを考えてみました。
- 日々施設についての疑問をメモし続けた
- 日々警備についての対応をメモし続けた
- 日々同僚についてのミスをメモし続けた
- そのメモ件数がなんと2万2千件を超えた
- 結果的に施設警備について誰よりも知っている
また、この現場は、人間関係が非常に良好なのです。
- 普通、警備員と設備員はあまり仲が良くないのですが、ここは非常に良好
- 防災センター長がフレンドリーで、オーナーもまあまあフレンドリー
- タワーマンションの住宅管理員とも良好な関係
また、施設内に交番と神社がありトラブルが非常に少ない、などなど・・・
今2024年、私はその膨大なメモを整理して、いろいろなマニュアルを作るのが楽しみになっております。
また、定年が初め60歳だったのが、65歳、70歳となって、今は70歳過ぎでも働けるようになりました。
私は、70歳で退職しようと思っていましたが、今年2月に可愛い可愛いピコちゃんが誕生し、70過ぎまで頑張ろうと思っている今日この頃です(^o^)
ということで、とりあえず、現時点(2024年12月)までの私の自分史は終わりです。ご清聴でなく、ご清読ありがとうございました。
ちなにみ、メモ件数2万2千件で、A6裏紙メモ用紙に5件づつ書いていますので4,400枚。このメモをEXCELで打ち込んで、A4プリントにしてキングファイル5個目に突入した(^^;;
大量にあると、誰にも読んでもらえない悲劇・・・でも、自分だけは読むよ!!
奇特なお方ですね(^^;;
大変大変、有難う御いました。
これからも、よろしくお願いいたします。
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